東京都の「非実在青少年」問題(GIGAZINEさんのまとめはこちら)について、SF作家の山本弘さんが、
『「非実在青少年」規制:目に見える形で反論を提示する』
というエントリーを書かれています。
とてもいい記事なのでなるべく多くの人に読んで欲しい、と思う一方で、実はこれだけでは十分ではないのではないかとも感じます。
僕がこの問題に関して嫌だなあと思うのは、規制に賛成している人たちが(そしておそらくは規制に反対する側も)「自分たちが(青少年を健全に育成するという、あるいは表現の自由という)正当な権利を踏みにじられた被害者」であると主張しているように感じられることでした。
もちろん「非実在青少年」問題に関する現在の条例案の条文については「っざけんな」って感じですけどね。でも、その条文がどんなに不条理で危険であるかを指摘しても、たぶん推進しようとしている人たちの「被害者の正義」は覆らない。
頭のいい人たちというのは、得てして感情論で騒いでる人たちを、正論で説得、あるいは論破しようとしてしまうのだけれど、それだけでは他人は動かせないと思うのです。
少年犯罪によって家族を奪われた人々が「少年犯罪の厳罰化」を訴えているときに、「少年犯罪は増えていない」という統計的なデータを突きつけて彼らを説得できるか、というのを考えてもらえば、その難しさが想像できると思います。
今回の「非実在青少年」規制についても、僕は同じような難しさを感じます。
もちろん客観的なデータは大切なものだけど、それだけでは「被害者の正義」は揺るがない。
自分たちが「青少年を健全に育成するという権利を踏みにじられた被害者」であるという、おそらくは心地好い「物語」を信じている規制推進派に耳を傾けてもらうためには、反対する人たちも、同じくらいわかりやすい「物語」を伝える必要があるのだと思います。
この国には暴力的でエロティックだけれども名作と呼ばれるに足る作品が無数に存在します。
それは『デビルマン』だったり『エヴァンゲリオン』だったり、あるいはBLだったり名もないエロ同人誌だったりするのかもしれないけれど。それらに接したことで救われたという若者もたくさんいるはず。少なくとも僕はかつてその中の一人でした。
孤独や人間関係に苦しんだり、未来に絶望したり、肉体的にも精神的にも追い詰められたギリギリの状態で僕の支えになってくれたのは、いつだってそういう猥雑で残酷な物語でした。
それについて語るのは、もしかしたら僕たちにとって、もっとも傷つきやすい柔らかな部分をえぐられるような苦痛を伴うかもしれないのだけれど。
けれど目の前で傷ついて血を流している姿を見せるまでは、きっと「被害者の正義」を振りかざしている人たちは、自分たちが「加害者」でもあることに気づかないと思うのです。
安易な表現規制によって傷つくのは「表現の自由」などという抽象的な概念ではなくて、血肉を持った個々の人間だということに(そしてその多くが無力な少年少女であるということに)、たぶんまだ多くの人が気づいてない。
だからといって「自分の言葉で実体験を語れ」なんて偉そうなことは言えないんですけどね。それがどれだけ怖いことなのか、自分でもよくわかるので。
ただ「物語」を紡ぐということならば、「作家」を名乗る僕らのような人間がもう少しがんばらなきゃだよなあ、と感じているのです。いや、社会風刺みたいな作品は書かないけどね(書けないし)。
まあ、とりあえずそんなことを思っていますということで。
最後に、昨年亡くなった評論家・中島梓さんの著書から引用させてもらいます。
私が一番怖いのはマトモな人です。私が一番キライなのは偉い人です。私が何より苦手なのは立派な主婦のかたと自信たっぷりのおっさんです。そういう人、つまりは由緒正しいお父さんとお母さん軍団のために私たちはこんなに苦しまなくてはなりませんでした。私たちは誰だって本当は父殺し、母殺しを夢見ている子供部屋の奴隷たちだったのではないでしょうか。かわりに女高生を監禁したかもしれない。かわりに幼女をバラバラにしたかもしれない。父を殺し、母を殺す金属バットを持つ力がなかったのだから。そういったら父や母はどれほど驚くでしょう。そして叫ぶでしょう。〈我々の何が間違っていたのか〉と。そう、彼らはきっと間違っていなかったからいけなかったのでしょう。父よ、母よ、あなたたちはいつだって正しかったのだから。
苦しんだことのない人、自分が苦しんでいると認めようとしない人にこの本は何も必要ないでしょう。そういう人にはこれは有害で不快な本であろうと思います。十二年かかって私はようやく、有害で不快な本を書けるようになったことがとても得意です。(『コミュニケーション不全症候群』筑摩書房)
ふう……柄にもなく真面目なことを書いたので何か異様に恥ずかしいゼ。